気まま視聴覚室

人生は音楽だ。映画のような人生を。

Long Goodbye, Michael Jackson.

text:

2009年6月25日 午後2時26分 ロサンゼルス、マイケル・ジャクソン — 逝去。あれからもう2ヵ月半以上が経ちましたが自分の中で彼の死は未だに現実感を伴わない、どこか別の世界での出来事のように思えてなりません。これまでにも様々な著名人の訃報に直面してきましたが、正直これほどまでに後を引きずるようなショックを受けた例はありませんでした。残念で、そしてマイケル・ジャクソンがもういないなんて寂しくてたまらない。

マイケル・ジャクソンとの出会い

僕はマイケル・ジャクソンの全てのレコードを持っているでもなく、歌詞をそらんじて唄うことやダンスの真似事も出来るでもない、ごくごく普通のファンです。マイケルが亡くなるまでの近年に目立った活動をしていなかったこともあり、彼の曲を聴くのはiTunesやiPodのシャッフル再生でたまに流れてくるものをBGM代わりに聴く程度になってしまっていましたし、面倒でリッピングさえしていないレコードもあったくらいですので、コアなファンの方々の前ではファンを名乗るのは申しわけないくらい。

しかしそんな僕にもそれほど長くはありませんが一時期マイケルに傾倒した時期があり、その頃は音楽といえばマイケル・ジャクソンでありマイケル・ジャクソンこそ音楽でした。それは僕の高校時代、アルバム "HIStory" がリアルタイムに発表されたときのことです。あまり説明する必要も無いと思いますが、このHIStoryというアルバムは1枚目がリマスター・ベスト・アルバム、2枚目が新曲のオリジナル・アルバムという2枚組みの構成で、これだけでマイケル・ジャクソンの過去の人気曲を総なめにすることも、現在のマイケル・ジャクソンを知ることもできるというひじょうに「おいしい」作品でした。学校で禁じられていてアルバイトができなかった高校生の自分にとっては2枚組みというのはけっこう奮発気味の買い物だったのですが、本当に何度聴いても飽きのこないモンスター・アルバムでした。マイケルの歌にも曲にもダンスにもそれまではあまり触れていなかった僕がなぜそのアルバムを買おうと思ったかというきっかけは覚えていないのですが、周りの友人が大いに騒いでいたとか多分そんな些細な理由だと思います。

当時はTRFや安室奈美恵などいわゆる「小室サウンド」の全盛期で僕も例に漏れず聴いていましたが、学校の登下校の際電車で一人きりになると必ず聴いていた、自分なりに特別にデコレートしたMDに収まっていたのが、マイケル・ジャクソンであったことを知っている友人は多分いません。別に僕が隠しても隠さなくてもマイケル・ジャクソンの音楽が凄いことは同級生や部活の皆もとっくに知っていたとは思いますが、僕にとってはとにかく宝物のような音楽で、他人に教えたくないという気持ちがあったのかも知れません。

そのようなひそかな楽しみはしばらくの間は彼の音楽だけで満足のゆくものでしたが、その後レコードショップの店頭で偶然に流されていた "Smooth Criminal" のショート・フィルムを見て、マイケルのダンス・パフォーマンスの素晴らしさに気づかされることになります。初めてまともに見たフィルムがSmooth Criminalですよ? アンチ・グラヴィティのパフォーマンスを見た瞬間は呼吸を忘れるほどの強烈な衝撃を受けたものでした。それまでは「ダンスも踊れるシンガー」として彼のことを認識していたのですが、その時にようやく彼の音楽にダンスが切り離せないものでありダンスがけして「おまけ」ではなく、それどころか「ダンサーを従えながら唄い踊る」という現在ではあたりまえのスタイルを創り上げた張本人であることを学びました。Smooth CriminalがHIStoryに収録されていないことは知っていましたので、フィルムを見て直ぐになけなしの小遣いをはたいてアルバム "BAD" を買い、既にCDの時代ではありましたがもしアナログ盤だったなら文字通り「擦り切れる」ほどSmooth Criminalを聴き倒し、ショート・フィルムを観るためだけにそのレコードショップに足繁く通ったものです(店員がファンだったのか頻繁にマイケルのショート・フィルムが流されていた)。

今あらためてマイケルのことを考え、その当時の思い出とともに彼の音楽を聴いたりライブ映像を観てみて思うのですが。やっぱり桁違いに凄いのですよ、彼の音楽もダンスも人生も何もかもが圧倒的。彼ほど "Superstar" という呼称が似合うスターは自分のこれまでの人生の限りでは他に知りませんし、もはや定冠詞のtheは必要無いと思えるくらい今でも断トツの存在です。マイケルが亡くなったことをきっかけにそれを見つめなおすような私は「にわか」と言われても仕方がないのですが、後年の彼に対するあまりにも不当な扱いと誤解には胸を痛めていましたし、何よりマイケルのパフォーマンスを一度も観たことがなく彼のことをただの変人としか捉えていない若い世代が増えているのはとても悲しいので、彼の歩んだ軌跡・パフォーマンスの素晴らしさ・遺した功績などについて書いてみたいと思います。このエントリーで触れられるのはマイケルのその伝説ともいえる人生のごく一部でしかありません。コアなファン層にはなんとも薄い内容で申し訳なく思いますが、そもそもブログの1エントリでマイケル・ジャクソンほどの人物を語るという時点で無理があります。ただ、あまりマイケルを知らない誰かにとって彼への興味を芽生えさせ彼のことをもっと知りたいと思わせる「きっかけ」になれるのであれば、それ以上の歓びはありません。

そうしたことが無いよう配慮はしたつもりですが、語弊や誤解を生みそうな表現や間違いがありましたら意図しないところですのでご指摘いただけると助かります。また、僕にとって思い入れのあるエントリになると思いますので今後も細かく加筆や修正はさせていただくかもしれません。

小さなポップ・スター

アメリカ合衆国インディアナ州ゲイリー。郊外の貧しい労働者階級のある家庭に、後に世界中をその魅力の虜にしてしまう不世出のスーパースターが産声を上げました。マイケル・ジョセフ・ジャクソン、元ボクサーで製鉄所クレーン操縦士の父ジョーゼフ(ジョー)と母キャサリンとの間に生まれた7番目の子供でした。

ある日子供たちが自身の大切にしていたギターでいたずらをしていたことに腹を立てたジョーは、叱りつける一方で兄弟たちの音楽的な才能に気づき、兄弟と近所の子供たちにバンドを組ませ活動をはじめさせました。"ジャクソン・ブラザーズ" と名乗ったそのグループにマイケルは幼すぎたこともあり最初はメンバーではありませんでしたが、やがてタンバリン担当として参加した彼がその天性の歌唱力により兄ジャーメインとともにリード・ヴォーカルへと上りつめるまでに多くの時間は必要ありませんでした。ジャクソン・ファイブの誕生です。

バンドの可能性を強く感じたジョーはこれが貧困から脱出するための大きなチャンスになると確信し、幼い兄弟たちをショービジネスの世界へと送り込むことになります。もともとしつけに厳しかったジョーはバンドの練習時には兄弟たちへさらに厳しい態度をとることになり、演奏に失敗があったときや、時には単に虫の居所が悪いという理由だけで兄弟たちを壁に叩きつけたり鉄の棒を持ち出す傍若無人ぶりを発揮したほか、マイケルに対しては身体的な特徴であったその鼻の大きさを嘲るという言葉による暴力まで振るったといいます。それらの行動はもちろん兄弟たちにとっては恐怖以外のなにものでもなく、マイケルを含め兄弟たちの多くが後年になって「虐待」であったと証言しており、マイケルは父の顔を見ただけで失神してしまったこともあったといいます。そうしたジョーの厳しさによる成果をはたして「甲斐」と言ってしまっていいのかは疑問ですが、兄弟たちはめきめきと実力をつけ、やがてメジャーレコード会社であるモータウンと契約を結ぶまでになりました。

The Ed Sullivan Show・MichaelJackson・Jackson 5

1969年10月、ジャクソン5へ改名し「帰って欲しいの(I want you back)」でメジャーデビューした彼らは瞬く間にスターダムを駆け上がり、リード・ヴォーカルだった僅か11歳のマイケルはポップ・スターとしての人気を不動のものにします。右の画像にリンクした映像(埋め込み不可のため遷移先でご覧ください)は、当時人気番組だったエド・サリバン・ショーに初出演したジャクソン5のライブです。笑顔で歌い踊るマイケルは若さゆえのキラキラと輝やいた愛らしい魅力を振りまきどこまでも伸びやかで澄んだ歌声を披露していますが、一方で大人顔負けの卓越した歌唱力には驚きを隠さずにいられません。ジョーの指導に怯え、子供らしい経験のほとんどをさせてもらえなかった悲しい陰の側面もありますが、歌って踊ること、それを心底愛しているということが表情に現れていますね。

この頃のジャクソン5の人気は全米でキャラクター・グッズや "The Jackson 5" などのアニメまで制作されるほど大きなもので既にポップ・スターではあったマイケルでしたが、それでもその後世界の文化を変え世界を揺るがすほどのスーパースターに変貌を遂げるとはまだ誰も予想できなかったでしょう。

リトル・マイケルとの決別

多くの人々の注目を浴び憧れと尊敬の対象となった人間には、普通では負うことのない苦悩までもが降りかかる。マイケルもその例外ではなくその生涯を通して様々な辛い経験をすることになりますが、彼がジャクソン5のポップ・スター「リトル・マイケル」から大人になるまでに受けた苦悩のひとつはほかならぬファンからのものでした。

ジャクソン5として多くのファンを獲得していたマイケルは1970年代に入ってからグループの活動と併行してソロ活動をはじめていました。レコードを発表すればそこそこ売り上げたしジャクソン5の全盛期ほどではないもののライブでも相変わらずの人気を博していたようです。やがて多感な高校時代を迎え、マイケルは背が伸びてひどいニキビに悩まされつつ声変わりなども経験して、大人の男性へと成長していきました。しかし、ジャクソン5時代からのファンはマイケルのそのあたりまえの成長に反発してしまった。—「昔の方がかわいかった」「子供の頃の声の方が好き」。ファンからしてみればそれはジャクソン5のリード・ヴォーカルとして可憐に歌い踊っていたリトル・マイケルを愛すればこその評価や意見だったかもしれませんが、そんな昔の彼を懐かしむ人々によって自身の現在を拒絶されてしまったマイケルは深く傷つけられ、性格が急変してしまったといいます。実姉のラトーヤ・ジャクソンがこの件について「元気な少年だったマイケルはこの時内気な青年に変わってしまった」と語り、またマイケル自身も後年になってオプラ・ウィンフリーのインタビューを受けた際このように答えています。

子供の頃からショービジネスにいる人なら、きっと誰もが経験するのだろう。たとえカワイイと言われる年齢でなくても、キュートなキャラクターに仕立て上げられるんだ。人間は当然成長する。でも世間は僕らをずっと子供のように扱いたがるんだ。

昔の自分ではなく自分自身がつくる今のマイケル・ジャクソンを愛して欲しいと強く願ったマイケルは、リトル・マイケルの幻影との決別を図り音楽性や自身の外見をも見直すことになる。そのようにしてもがき苦しんでいたなか、ダイアナ・ロスの主演で映画化された「ウィズ」でかかし役で参加したことをきっかけにその映画の音楽を担当していたクインシー・ジョーンズと知り合い、彼にプロデュースを依頼することになりました。この出会いが、後にマイケルの願いを叶えるだけでなくこれまでの音楽はもちろん社会や文化さえも変えてしまうことになる傑作を3作も世に送り出すことになります。

"King of Pop" へ

Off The Wall(オフ・ザ・ウォール)

クインシー・ジョーンズのプロデュースでリリースされた3部作の1枚目。本作品から真の意味でのマイケルのソロ活動が始まったと言われる。

最初にリリースされたアルバム "Off The Wall(オフ・ザ・ウォール)" は70年代が終わろうかという1979年にリリースされ、アルバム中4曲をトップ10に送りこみ全米で500万枚・海外で200万枚というビックセールスを記録し、まだあどけなさは残るもののもはやリトルではない大人のマイケルを世界中に印象づけることに成功しました。このアルバムはポップ・ミュージックとしての色が濃くなる後出の作品よりもソウル・ミュージックとしての色合いが濃く、結果ブラック・ミュージックのファンにとっても根強い人気を誇る作品になったようです。僕自身もこのアルバムに収録されている "Rock with You" と "She's Out Of My Life" は大好きな曲で、特に後者はマイケルの全ての作品の中でも最も哀愁を感じさせる歌声で切なさを歌い上げていていつ聴いてもじんと響く作品。実際マイケル自身の思い入れも相当なものだったようで、レコーディングの際何度撮り直ししても最後の部分でマイケルがどうしても泣いてしまい、結果泣き声のまま収録されることとなりました。この曲は当時付き合っていたテータム・オニールとの別れを歌ったものと言われていますが、マイケルに歌にしてもらえるなんて、今にしてみればどれほど思い出に残ることだったか想像に及びません。

Michael Jackson - Don’t Stop Til You Get Enough

また、このOff The Wallにはマイケルが初めて作詞/作曲を行った "Don't Stop 'Til You Get Enough(今夜はドント・ストップ)" が収録されていますが、この曲のミュージック・クリップでタキシードを着たマイケルが3人に分身するというパフォーマンスを映像化しており、マイケルが黒人ということであまりオンエアはされなかったものの当時大きな話題を呼んだそうです。まもなくしてミュージック・ビデオの世界に革命的ともいえる変革を起こすマイケルですが、これはある意味でその予兆だったのかもしれません。こちらもYouTubeに映像がアップされていましたので、なかなか時代を感じさせる映像ですがご覧になってみてください。

Thriller(スリラー)

現在までの累積売上が1億枚を超えているマイケル最大のヒット作品にしてモンスターアルバム中のモンスターアルバム。

そして。Off The Wallから3年、クインシー・ジョーンズと組んだ2つめの作品がリリースされると世界に激震が走りました。—1982年、アルバム「Thriller(スリラー)」リリース。

もはや説明するのもはばかれますが、2年間もの間ビルボード・チャートにチャートインし続けそのうち連続37週に渡って1位に君臨、グラミー賞では8部門を獲得し、これまでに全世界で1億500万枚(2009年6月現在)もの枚数を売り上げたモンスター中のモンスター・アルバムです。数字ももの凄いですが、それ以上にこのアルバムでマイケルが世界中に与えた影響は計り知れないものがあります。Billie Jean, Beat It, Thrillerのショート・フィルムはミュージック・ビデオの在り方そのものを変えてしまったし、MTVで暗黙の了解とされてきた「黒人のミュージック・ビデオは放送しない」という慣習を打破し、一世を風靡したジャクソン5全盛の頃の人気など取るに足らないほどまでに世界中の若い世代を虜にしてしまった。音楽に傾倒させるだけでなく、そのファッションや考え方にまで影響を与えやがて文化までもが変わった。ずっと望んでいた世界中のファンからの「今」の自分に対する愛を得たばかりか、若干24歳にしてマイケルはエルビス・プレスリービートルズにならぶ特別なアーティストになってしまったのです。

Thrillerのショート・フィルムは後の多くの調査やアンケートでミュージック・ビデオの最高傑作と目されており、1999年に行われたMTVの「これまでに作られたビデオの中で最も偉大なベスト100」でも1位となっています。ファンの皆さんにとっては何をいまさらという話しかも知れませんが、YouTubeに上がっているビデオは10分のしばりがあるため、14分近くに及ぶこの大作を実は全て鑑賞したことが無いという人が意外といらっしゃるのではないでしょうか。テレビのランキングなどで流されるサビ部分のパフォーマンスはあまりにも広く知れ渡っていますが、ジョン・ランディスを起用したこのミュージック・ビデオの構成はマイケルが「ショート・フィルム」と称する通りさながら映画のようであり、楽曲もそれ用にアレンジされた大変素晴らしいものです。—「僕はモンスターになりたい。かなえてくれるかな?」これはマイケルがジョン・ランディスに言った言葉ですが、25年以上も昔にその発想に行き着き行動に起こしたマイケルの神通力には感服せざるを得ません。

「黒人のミュージック・ビデオを放送しない」だなんて今では考えられないことですが、それがたかだか25年前の「自由の国」アメリカにあった現実だなんて僕にはさらにピンとこない事実です。それをこのThrillerというたった1本のミュージック・ビデオが覆してしまったという点でマイケルの功績はやはり賞賛に値して当然のことと言えます。そして当時から親しい間柄となっていたエリザベス・テイラーはBRE AwardでマイケルがPop, Rock, Soulの3部門を制した際、こう讃えました。— "The True King of Pop, Rock and Soul."

こうしてマイケルは "King of Pop" になった。

BAD(バッド)

同一アルバムからのシングル・カット5曲連続1位を記録。現在も破られていない偉業を成し遂げた作品。

そしてThrillerによる衝撃がやみ、世界中の興奮が収まりつつあった1987年。クインシー・ジョーンズとタッグを組んでの最後の作品となったアルバム "BAD(バッド)" をリリース。Thrillerが大地震であったとすればこちらはその余震と言えた作品で、Thrillerほどの売上は達成しなかったもののこれまでに全米で800万枚・国外で3,000万枚を売り上げており、やはり地震であったことは間違いない。事実同一アルバムからのシングル・カット5曲連続1位という今も破られていない偉業を成し遂げており、数字的にThrillerを超えた点もあれば、ローリング・ストーン誌が「Thrillerよりもリッチで、セクシーで、より良く仕上がっている」とするなど作品への評価は非常に高いものでした。

元ロサンゼルス・タイムスのライターで当時マイケルにインタビューを行ったロバート・ヒルバーンによれば、「次のアルバムは(Thrillerの)2倍は売れるよ」とマイケルがいたってまじめな顔で語ったとされ、マイケル本人の自信も充実していたことが読み取れます。それはマイケルがソロとして初めて行ったワールド・ツアーである "BAD ツアー" の様子を見ても明らか。オープニング・ナンバーの Wanna Be Startin' Somethin' のパフォーマンスですが、このときマイケル29歳。どの時代のマイケルも好きですが、この頃のエネルギーに満ち溢れ濃すぎるほどのギラギラとした野性味を全身から発散するマイケルには、もはや他の追随をゆるさない圧倒的なカリスマ性が備わっていたことが分かります。僕を夢中にさせたSmooth CriminalはBADに収録されていた作品ですので、このライブ中でも披露しているはず。マイケルのライブのうちオフィシャルに販売されているDVDは後述するブカレストのものしか無いのですが、映像として残っている以上是非ともこのライブの商品化も願わずにはいられません。

ライブ・イン・ブカレスト — "Dangerous Tour"

ライブ・イン・ブカレスト — "Dangerous Tour"

現在オフィシャルでリリースされている唯一のライブDVD。

Dangerous(デンジャラス)

ニュー・ジャック・スウィングを取り入れたサウンドで新境地を切り開いた作品。

さて、ここまではマイケルがいかにして King of Pop と称されるようになったかを書いてきましたが、この時代はまだ僕が生まれる以前か小学校低学年くらいまでの話。父の仕事の都合で海外で生活していたこともあり、テレビにさほど触れる機会がなかったためかまだマイケルをマイケル・ジャクソンとして認識できていなかった時代ですが、ここからは僕も中高生となりようやくマイケルとリアル・タイムに過ごしてきた期間となります。(といっても冒頭にお話ししたように、僕がマイケルを本格的に聴くようになったのはHIStoryがきっかけですが。)

アルバム "BAD" 後、マイケルはクインシー・ジョーンズとのタッグを解消し新たなアルバムの制作にとりかかりました。既に世界でも類を見ないスターとなっていたマイケルですが、さらなる極みを目指し当時まだ新進のスタジオ・ミュージシャンであったテディー・ライリーをメイン・プロデューサーに迎え、1991年にアルバム "Dangerous(デンジャラス)" を完成させる。音楽シーンの流行がヒップ・ホップへと移行していく中、ブラック・ミュージック特有の重いグルーヴ感を保持したまま、同時に軽快なスピード感と親しみやすいメロディーをアピールする「ニュー・ジャック・スウィング」と呼ばれる、テディー・ライリーの生み出したこのスタイルにマイケルは見事に順応。BAD以降一部で人気の陰りなども囁かれた中、蓋を開けてみれば史上最速となる発売6週間での1,000万枚突破という記録を打ち立て、アメリカ国内700万枚・国外3,200万枚というこれまでと変わらない驚異的なセールスを叩き出すこととなりました。マイケルの時代を先取る千里眼にまだまだ曇りはなかったわけですね。

マイケルはこのDangerousをひっさげ世界67会場で計350万人もの観客を動員したワールド・ツアーを行いましたが、そのうちルーマニアのブカレストで行われた伝説的ライブが、現在オフィシャルで販売されている唯一のライブDVDとして商品化されています。「ライブ・イン・ブカレスト — "Dangerous Tour"」。今はYouTubeなどを通してこのライブ以外の映像も気軽に観られる時代になりましたが、細切れで楽しむではなく、マイケルのライブをオープニングからエンディングまで1つの完成されたアートとして鑑賞することのできる唯一のDVDです。

僕はどちらかと言えば後期のマイケルの方がより好きなのですが、このブカレストには前期よりも美しくそしてスタイリッシュに進化を遂げたマイケルの魅力が余すことなく記録されています。マイケル・ジャクソンの真骨頂はやはり観客の目の前で繰りひろげられる力強い生のライブ。一体なぜ世界中が彼の虜になったのか。ただの1度でもこのライブを観たことのある人ならば、その答えがここにあることを知っているはずです。

1分38秒間の沈黙で、全てを制圧する。

マイケル・ジャクソンのライブにおいて、マイケルが観客たちに与える熱狂がどれほど凄まじいものか。それを端的に説明できるシーンを挙げろと言われたなら、それはこのライブのオープニングで十分。闇のなか光り輝くステージにマイケルが現れるのを今か今かと待つ観客たち。ステージ上にその予兆が現れると歓声は徐々にヒートアップし、次の瞬間閃光と爆発の中マイケル・ジャクソンがステージに突如現れると、それは悲鳴と絶叫へと変わります。

ゴールドのミリタリー風ジャケットに足首の見えるブラックの細身のパンツ、ジャケットの下にはもはやマイケル・ジャクソン以外には着こなすことが出来ないと思わせられる、動きやすさを追求した結果でもあるゴールドのレオタードをまとい、顔にはティアドロップのブラックのサングラスをかけている。そして足下はもちろんトレードマークとなったホワイトの靴下とブラックのローファー。"降臨" と表現したくさえなる見事なまでの登場で仁王立ちするマイケルは、観客たちの心の準備が整うのを待つようにして微動だにせず炎のシャワーの中に佇みます。「マイケルが現れた!」それだけである者は歓喜にむせび・ある者は泣き出し・ある者は放心し、そうして会場全体が凄まじいまでの興奮にのまれていきます。マイケルは時間にして1分38秒もの間完全に静止したのち、今度はその首を右から左へスイッチが入ったかのように動かす。すると観客の次なる反応は「マイケルが動いた!」という爆発的な熱狂となり、中にはまだマイケルが歌どころか声の一つも発していないというのに失神者まで現れたと言います。文章で書くとなんとも眉唾に思えてしまう事態ですが、実際にその映像を観てみるとそこに嘘は無いと納得いただけるでしょう。何をするでもなくただ仁王立ちする、それだけで会場全体を制圧し、マイケル・ジャクソンの世界に変えてしまう。これが史上最高のエンターテイナーの成せる業かとただただ感激してしまいます。

この後「この世で最も格好良いサングラスの外し方」を披露したマイケルは軽やかなターンを踏んでアルバム "Dangerous" の1曲目でもある "Jam" でライブを幕開けます。その瞬間に会場はいきなり沸点に到達したかというほどの盛り上がりを見せますが、その気持ちはよく分かる。あのマイケル・ジャクソンが目の前で歌い踊っている、そんな状況を目の当たりにしたら僕も正気を保っていられる自信がありませんから。500人以上もの失神者を出したと言われるこのライブ、ジョークとしては趣味が悪いですしもちろん死者など出ていませんが「死因 — マイケル・ジャクソン」なんて状況も考えられるくらいに会場は熱気を帯び、観客たちの中からは蒸気が立ち上るほどでした。

マイケルのライブではダンス・パフォーマンスを行うことを加味した上で全ての曲にライブ用の入念なアレンジが施されヴォーカルの再録さえ行われますが、その結果原曲よりもクオリティが上回って感じることも珍しいことではありません。このJamも例外ではありませんが、正直これほどまでにライブ向きの曲だとは観るまでは思ってもいませんでした。繰りひろげられるパフォーマンスはまさにThis is Michael Jackson。音楽の天才が人の想像をはるかに超えた地道な努力を経て築き上げてきたその全ての成果が惜しみなく発揮され、たとえ(英語のため)歌詞の理解が困難だとしても体の芯が自然と打ち震わされる種類の興奮を覚えている自分に気づかされます。人は本当に素晴らしいものを目にすると、ただ涙が出てくるのです。

僕がマイケル・ジャクソンを観て感じる胸の高鳴りは、少年マンガのヒーローを見たときのそれに似ています。マンガの中のヒーローはいつも、本気を出したときに信じ難い力を発揮して他の誰も寄せつけない絶対的な存在へと変貌し、敵を倒したりピンチを切り抜けたりその場の状況を一変させてしまいますよね。特に男子はそういうスカっとさせられるヒーロー像が本当に大好きなんですよ。孫悟空やケンシロウや空条承太郎しかり。それはもちろん作者の描いた筋書きであり演出で、創られた世界だから出来ることなのですが、マイケル・ジャクソンのパフォーマンスには現実にそれが起こっているような高揚感を感じてしまうのです。Don't think, feel. — の言葉どおり、音楽とダンスが完璧なまでに融合したマイケルの超人的とも言えるパフォーマンスはただ感じるだけでいい。BADツアーにバック・ヴォーカルとして参加し当時はまだ駆け出しのシンガーだったシェリル・クロウがこのようなニュアンスのことを言っていたと思います。「マイケルの音楽が好きか嫌いかなんて関係ない、彼のパフォーマンスを観れば人はそれがただ素晴らしいものだって理解するの」。それに尽きますね。

スーパーボウルの価値を上げた男

ちなみに、マイケルはこの長時間にわたる静止のパフォーマンスをDangerousツアーの合間を縫って出演した第27回スーパーボウル(1993年1月)のハーフタイム・ショウでも披露しています。Jamに続き、Billie Jean, Black or White に Heal the World。時間にして約13分の短いライブではありますがスケールが大きく非常に濃密な内容となっており、居合わせた観客たちの盛り上がりも凄まじいものになっています。「風はいったいどうして吹くの?」その答えはBlack or Whiteを観れば分かりますよ。それは、そこにマイケル・ジャクソンがいるからだ。

スーパーボウルのこれまでのハーフタイム・ショウは地元のマーチングバンドやカントリーミュージック、ディズニーなどのショウを行うのが通例でいわゆる場つなぎ的な扱いのものでした。しかし試合時に比べ視聴率が10%近くも落ちることや全体的にも低迷していたNFLをなんとか立て直したいと頭を抱えていた関係者は、当時人気絶頂だったマイケル・ジャクソンに力を借りるべく白羽の矢を立てたとのことです。スーパーボウルが何かさえ知らなかったマイケルへの出演交渉はマイケルがツアー中で多忙を極めたこともあり計3度断られるなど苦労はあったようですが、多くの発展途上国を含む世界100ヵ国以上で放送されていること、世界各地に駐留している軍関係者にもライブで観てもらえることがマイケルの心を動かし出演を承諾するに至ったと言われています。これまでのハーフタイム・ショウの伝統に従いギャラは無償。マイケルが提示した唯一の条件はスーパーボウルの収益金の一部を恵まれない子供たちを救う基金に寄付をすること、ただそれだけでした(実際にNFLはマイケルが設立したHeal the World Foundationに10万ドルの寄付を行った)。

そのようにして史上初めてトップアーティストによるハーフタイム・ショウが行われたスーパーボウルは、全米で1億2,000万人以上が観たとされ、試合よりもハーフタイム・ショウの方が高い視聴率をはじき出す結果となり、ショウは勿論スーパーボウルの価値そのものを飛躍的に高めることとなりました。もちろんマイケルにもパフォーマンスを行ったメリットは生じ、この直後発売から1年以上時間が経過し全米チャート131位までランキングを落としていたアルバム "Dangerous" が41位まで急上昇、スーパーボウルの後ほどなくして出演したオプラ・ウィンフリーのインタビューの後にはさらに31位上昇し10位にまで返り咲くこととなりました。今でこそエアロスミスローリング・ストーンズブルース・スプリングスティーン、ダイアナ・ロスなどそうそうたる面々が参加するような一大イベントとなったハーフタイム・ショウですが、こうしたステータスを築く礎となったのはマイケル・ジャクソンだったわけですね。スポーツの世界にも多大な功績を残したマイケル。

アンチ・グラヴィティ

さて再びライブ・イン・ブカレストの話題に戻りますが、ここでご紹介するのはいよいよ高校生の頃僕を夢中にさせた、Smooth Criminalのパフォーマンス。この曲のダンスにはBillie Jeanのムーンウォークに張るかという人気を誇る、ある決め技が入ります。それが「アンチ・グラヴィティ」。読んで字のごとく "反重力" のことですが、知らない人などいないのではないかという自問もありつつ、やっぱり語りたい。これを初めて観たときの衝撃ったらありませんでしたよ、マイケルの前では重力でさえ仕事を忘れるのかと。

マイケルによって作詞/作曲されたこの曲は歌詞, メロディー, ベースライン, リズム, グルーヴ何をとっても僕の琴線に触れまくる異常なクオリティでありながら、ダンスと融合したときの素晴らしさときたら、人類の言語にそれを伝えるに充分な意味を持つ言葉なんて存在しないのではないか。そのようにさえ思わせられます。後述するDangerousのパフォーマンスとともに僕の中で最も好きなマイケルのパフォーマンスの1つなのですが、もし未見の方がいらっしゃいましたら、これは是非ともおすすめしたい。

ムーンウォーカー

子供たちをドラッグ中毒にして世界征服を企む暗黒組織と戦う、マイケル・ジャクソン原案・主演のファンタジー映画作品。

ライブでのパフォーマンスではまず、ステージ上にスクリーンに投影されたマイケルの巨大なシルエットが現れるところから始まります。細身のジャケットにハットをまとったすらりと長く伸びたシルエットがマイケル・ジャクソン以外何者でもない独特の個性を放っていて既に格好いい。このライブでは観客のボルテージは常に上がりっぱなしですが、まだまだライブ前半ゆえ観客も非常に元気。浮かび上がったシルエットだけで涙を流す者たちや、ここでまさかのSmooth Criminal! そんな感動に心を射貫かれ口を閉じるのを忘れて固まってしまう者たち。それぞれがそれぞれの思い入れに対する様々な反応を見せるなか、マイケルはまだまだこんなものではないよとばかりに畳み込むような軽快なステップを踏んでいく。ショート・フィルム(そして映画「ムーン・ウォーカー」)で見せたあのままの世界観を見事に持ち込んだステージは、本当にこれはライブなのかと疑いたくなるほど見事です。

そして曲が終盤にさしかかる直前の間奏で、いよいよアンチ・グラヴィティのパフォーマンスが。ダイナマイトを持った男が現れそれを爆発させると、マイケルを含め全員がその強烈な爆風で煽られ体が前のめりに傾いてしまうというもの。(まったく、いつ観ても最高なんだ!)一体何をどうしたらそんなことを考えつくに至るのか不思議でなりませんが、そんな常識を超えたパフォーマンスをマイケルは見事にやってのける。このパフォーマンスはもちろん仕掛けなくして出来ませんが、一見そんなものは無いように見えるところに人は「そんなバカなことあるものか。いや、でもマイケルなら... 有り得る... のかも」とキツネにつままれたような気分になります。

まぁ勿論これはトリックを使っているのですが、もったいぶらず答えを出してしまえばそれは "靴" にあります。観客の位置からは見えにくい位置にあるステージ上にせり出した「杭」に特殊な加工をした靴を引っ掛けることで、前のめりの無理な体勢でも体重を支えられるように工夫しているのです(マイケルはこの靴とステージの装置に関してアメリカ国内のパテントを取得しています)。マイケルの足下に注目すると前の曲のパフォーマンス時よりも足首が太くなっていることに気づくと思いますが、これはもちろん急に足首が太くなったわけではなくその特殊な靴を履きその上に靴下とローファーの装飾を施しているためです。言われてしまうと一瞬拍子抜けした気になりますがそれでもやはり凄いと感じるのは、直ぐに誰もが本当にそれだけ?という思いに至るからでしょう。実際のところ確かに仕掛けがあったとしてもこのパフォーマンスを行うには強靱に鍛え上げられたアキレス腱と背筋が必要とされ、素人がやったところで無理なんですね。たとえ倒れこんで体重を支えられたにしてもこの状態から元の直立した姿勢に戻るなんて常人にはとてもマネができることではありません。しかもこのライブにおけるアンチ・グラヴィティではショート・フィルムで見せた45度どころではなく60度近い傾斜を見せている上に、周りのどのプロフェッショナルのダンサーよりもマイケルの傾きの方が一段と大きいときている。

自分が格好良いと信じるものを常識的に無理だと決めつけず発想と努力で実現に結びつける、その力に人一倍優れたアーティスト、それがマイケル・ジャクソンでした。

ライブ・イン・ブカレストについてご紹介するのはここまで。全ての曲について書いていたら一冊本になってしまいそうな勢いですので自重させていただきますが、続きを観てみたいと思われた方はYouTubeでと言わず、ぜひより良い画質・音質で堪能できるDVDのご購入をご検討ください。最初にも言いましたが、マイケルのライブはオープニングからエンディングまでが1つのアート作品です。このライブはあなたの音楽やエンターテインメントに対する価値観に大きく影響を与え、あなたにとってその人生の宝物と言える存在になるかも知れません。

伝説の15分

ヒストリー・オン・フィルム VOLUME II

アルバム "HIStory" のショート・フィルム集。「伝説の15分」の映像も収録されている。

ここにMTVの歴史の中で「伝説の15分」として語り継がれている記録的な映像があります。1995年、MTV Video Music Awardsの受賞を記念しマイケルが特別に行ったライブ・パフォーマンスのことです。演目は "Don't Stop 'til You Get Enough" / "The Way You Make Me Feel" / "Scream" / "Beat It" / "Black or White" / "You Want This" / "Billie Jean" / "Dangerous" / "Miss You Much" / "Smooth Criminal" / "You Are Not Alone" というまばゆいばかりにゴージャスなメドレー構成。

このライブを行った頃にはあの忌々しい児童虐待容疑にさらされ、心身ともに深い傷を負っていたに違いないマイケル。リサ・マリー・プレスリーとの電撃的な結婚により多少持ち直していたとはいえ痩せてさらに体の線が細くなったことで体調が心配されていましたが、上がったこのステージではそれを微塵も感じさせることはありませんでした。マイケルはOff The Wallリリース時に受けたインタビューで、ステージに上がる時の気持ちをこのように述べています。

ステージの上が一番落ち着くんだ。
なぜだかはわからない。僕にとってステージは最高の場所なんだ。
ライトが当たって... あれはまさに魔法のようだよ。

たしかにそうかもしれません。ステージに上がったマイケルはどんなときも、みんなのヒーローであり続けた。そこには紛れもなくスーパースターの姿があって、みながそれに心酔した。彼が自分にとってのステージが魔法だと言うなら、彼のいるステージは僕らにとっては奇跡でした。

ステージ上にたった1人であるにもかかわらず圧倒的な存在感を放ち熟練したムーンウォークを披露したBillie Jean、Smooth Criminalの振りを巧みに組み込み次元を超えたキレと動きをみせたDangerous、人はこんなにも優しい表情が出来るものなのかと気づかされ、細身で華奢な体から発せられているとは信じがたい伸びのあるロングトーンを聴かせたYou Are Not Alone。繊細で優しくてユーモアに溢れそしてシャイだったマイケルは、生前のころから「伝説」と称されるに至るまでのパフォーマンスを披露しながらも曲間では観客からの割れんばかりの歓声に嬉しそうに応え「あ、どうも」と照れくさそうにペコペコ頭を下げてしまう、そんな謙虚さも持ち合わせた人でした。その様子を見た人たちのほとんどは、マスコミのゴシップ記事で捏造され歪曲され続けてきた彼に関する報道の多くが途方もなくバカげた嘘であると見抜きそして彼を信じたのではないでしょうか。

このライブで僕が特筆したいのはやはり "Dangerous" のパフォーマンス。これを観て何も感じない人などいないでしょう。もう何度も何度も繰り返し観てきましたが、観る度に新鮮でいっこうに飽きることがありません。指先の1本1本に至るまで全身のあらゆる部位が計算され尽くした動きをしつつ音楽とリズムに正確無比にシンクロしている様はぞっとするほどに美しく、生の人間による動きと思う方が難しく思えてきます。周囲のバックダンサーたちのレベルも恐ろしく高い(特に画面に向かってマイケルの右隣のかたなど)ですが、マイケルは彼らプロのダンサーにまるでひけをとっておらずむしろ彼らを率いているマエストロのような技術と風格を漂わせています。

1987年にマイケルが初来日ツアーを行った際当時のスポンサーだった元日本ペプシ・コーラ副社長 秋元征紘さんのお話しによれば、マイケルはツアー中だろうと練習には手を抜かず本番の前に3時間・終了後に反省点を正すためにさらに3時間の練習をこなしていたと言います。このDangerousの神がかり的なパフォーマンスをこなせるに至るまでに、陰で一体どれほどの努力があったかを考えるだけでも胸が熱くなってきます。マイケルと一緒に踊ったダンサーたちは、今、彼と同じステージで踊れたことをどれほど誇りに思っていることでしょうか。

ザ・ジャクソンズ復活、魂のBillie Jean。

2001年9月 ニューヨーク・マディソン スクエア ガーデンにてマイケル・ジャクソンのソロ30周年を記念する盛大なコンサート("Michael Jackson: 30th Anniversary Special")が開催されテレビ番組として中継された。彼がオーディエンスの前で行った最後のパフォーマンスは2006年ワールド・ミュージック・アワーズで歌ったWe Are The Worldですが、このときは4ラインほどしか歌っておらずダンスの披露もなかったため、この30周年記念コンサートが事実上マイケル・ジャクソン最後のパフォーマンスと言えます。これが見納めになると予想した人などいないと思いますが、奇しくもこのときマイケルは兄弟を呼び寄せ30周年に相応しくザ・ジャクソンズ(ジャクソン5)のあまりに感慨深い復活パフォーマンスを行っています。最後に、マイケルは自分の原点に帰っていたのですね。初めて観たときはとにかく感激したものですが、マイケルの逝去後にあらためて観ると胸が詰まる思いです。

このコンサートはマイケル単独のコンサートではなく、マイケルと交友関係にある様々なゲストが集い前半に彼らがマイケルのカバーや自身のナンバーをパフォーマンスした後、「トリ」としてマイケルが登場するというある種お祭り的イベントでありました。マイケルの影響力を物語るように、そのゲストたちの顔ぶれが凄い凄い。冒頭のMCにいきなりサミュエル・L・ジャクソンが現れマイケルへの祝辞を述べるやいなや、紹介した前座1曲目がなんとアッシャーにマイヤにホイットニー・ヒューストン。いったいマイケル以外に、世界中のどこを探したらホイットニーを前座として扱える人間がいると言うのでしょう。その後もデスティニーズ・チャイルドライザ・ミネリ / グロリア・エステファン / マーク・アンソニーなどなど、それぞれが単独ででもマディソン スクエア ガーデンでコンサートを行えるのではないかというメンツが、入れ替わり立ち替わり1曲を披露しては去っていく。

しかしそんな豪華なメンツが肩を並べても、やはりトリのザ・ジャクソンズそしてマイケルのパートでは会場の盛り上がりが格段に違ってくる。ジャクソン5メンバーのジャッキー / ティト / ジャーメイン / マーロン / マイケル、そしてザ・ジャクソンズに改名した際に脱退したジャーメインの代わりにメンバーとして加わったランディ。爆発によるド派手な演出の中6人がステージに現れたときの高揚感といったらないですよ、そしてゴールドのフルフェイスのヘルメットを被り後ろ姿で登場するマイケルの存在感はやはり異常です。

ライブは "Can You Feel It" に始まり "ABC", "I'll Be There"... と往年の大ヒット曲のオンパレード。ザ・ジャクソンズとしてはおよそ20年ぶりのステージでこのときマイケル43歳・長男のジャッキーは50歳で、中年になって容姿も声もすっかり成長したもののこの年代になったからこその味が染み出したステージで、子供時代をリアルタイムに知っているファンにしてみれば卒倒ものだったのではないでしょうか。ザ・ジャクソンズパートでの最大の見せ場となったナンバーはもちろん、エド・サリバン・ショー初出演時の再現と言わんばかりに披露したデビュー曲 "I Want You Back"。当時と同じ振り付けで踊る彼らから発せられるエネルギーや一体感には、ずっと一線で活躍し続けてきたマイケルはともかく本当に久しぶりのステージを踏む兄弟もいたわけで、関心を通り越して唖然とさせられました。このカワイイ振り付けを大の中年オヤジが本気でやる様は爽快だしスーパースター・マイケル・ジャクソンがこの時ばかりはメンバーのひとりという立場というのがなんとも贅沢でただただ嬉しい。父ジョーが幼少の頃の彼らにしてきた傍若無人ぶりには閉口させられますし賛同できない面が多々ありますが、兄弟たちの才能を見抜く能力だけは本物だったと言わざるを得ません。

そうしてザ・ジャクソンズのステージが終了した後は、いよいよ会場にいる誰もが待ち望んでやまなかったメイン・イベント、マイケル・ジャクソンの登場。彼のパフォーマンスについてはここに至るまでにご紹介した映像や文章で既に語り尽くした感はありますがあと1曲だけご紹介させてください。それは様々な意味でマイケル・ジャクソンそのものを象徴する曲で、そして今日現在観られるものとしては事実上最後の "Billie Jean"。マイケルのパフォーマンスは時代とともに振り付けに新たな動きが追加されたりカットされたり、演出も形を変えてきました。このBillie Jeanもそうした中の一つで、時代ごとに良さは異なりますがもし選ぶなら僕はこの30周年記念セレブレーションを挙げたいと思います。

マイケルのソロ・パートはThe Way You Make Me Feelに始まり、Black or White, Beat Itと続けて歌い上げると場内は既に興奮のるつぼ。次にマイケルが何を聴かせてくれるのか期待に胸を膨らませているなか、ステージはまるで月の明かりのような蒼い薄明かりに照明が落とされます。中央にあるのはマイクスタンドと、使い古された木製の脚立のみ。スポットライトが向けられた舞台袖から現れたのは珍しく白いTシャツ姿のマイケル。手には使い慣れた革製の旅行カバンのようなケースを持ち、乾いた靴の音を鳴らしながらステージの中央に向かってゆっくりと歩いてきます。何が起こるのか良く分からない観客たちですが、そのただならぬ雰囲気に、次に『何かとびきりのこと』が起こることだけは確信をしています。実はHIStroryツアーでも同様の演出を行ったことからか、何事か理解した観客たちはそのとき既に半狂乱の状態です。マイケルはステージの中央にきて脚立の上にケースを置くと、おもむろにケースを開け中からあるものを取り出します。...黒のスパンコールのジャケット。多くの観客たちが全てを知ったのがこの瞬間でした、次は "Billie Jean" だと。

「目の色が変わる」とは良くいったもので、それを目撃した観客たちの嬉しそうな表情といったらありませんよ。小学校低学年くらいの女の子ふたりが飛び跳ねて喜ぶ様子が映像に収められています。マイケル・ジャクソンのライブを観ていつも関心させられるのは、いつだって人種や老若男女を問わずさまざまな観客がいること。そこにはマイケルと歳を重ねてきた昔からのファンだけでなく、いま挙げた女の子たちのように常に新しいファンの姿がありました。多分彼らの親がマイケルのファンでその影響を存分に受けているからなのでしょうが、いくらスターだからといって自分が生まれてもいない昔から活躍しているアーティストよりも、普通はもっと自分たちの年代に近いアーティストに興味が向きそうなものではないですか。しかしマイケルの場合そんなことおかまいなしにあらゆる世代を虜にしてきた。それって本当に素敵なことですよね。

ジャケットを羽織った後、続けて黒のハットを取りだすとマイケルはいつものように目深となる斜めのスタイルで頭にかぶせる。最後にスパンコールの白い手袋を取り出すと一呼吸して、それを焦らすように右手にはめていきました。この日一番の大歓声にマディソン スクエア ガーデン全体が揺れる中、衣装のフィット感を確かめるように軽くステップを踏むマイケル。手袋が装着された右手の指をパチンと鳴らすと指の先にあるマイクスタンドが立つ床にパッとスポットライトの円形の光が浮かび上がる(実に見事なタイミングの効果音と照明)。もうずるいくらいに格好いいのですよ、どうやったら観客が喜ぶか知り尽くしている。

もう待てないよとばかりに観客のテンションが最高潮に達すると、マイケルはその光の円の中にスタッと飛び込み深々と一礼します。そこからイントロのビートが刻まれ始めると、あとはもう、マイケルの独壇場。世界最高のエンターテイナーの真骨頂、マイケル・ジャクソンという地球史上類を見ない天才が日々努力し苦悩し羨望し憧れそしてその人生で追求してきた音楽とエンターテインメントの全て、もはや誰も追随することの出来ない完璧なパフォーマンスがこのBillie Jeanに凝縮されています。黒く大きな瞳を輝かせながら見入る黒人の少年、人目をはばかることなく飛び跳ねて喜ぶ中年のオヤジ、抱き合いながらビートに身を任せる若い女性二人組、頭を抱え涙を流しながら放心状態の女性、拳を天に突き上げて声援を送る白人の若い男性、腰をくねらせながらマイケルとともに踊る黒人のおばさん、微動だにせず双眼鏡でマイケルの一挙手一投足を注視する女性、静かな眼差しで控えめの拍手を送りながら見ている白髪のおじいさん。ステージ上でたった一人の男がただ歌を唄い踊っている、他には何も無い。あまりにもシンプルなのに、この上なく豪華で贅沢です。

43歳とは思えない軽やかなステップに、もはや浮いているとしか思えない滑らかなムーンウォークで魅せたと思えば高速のスピン・ターンを決めそしてつま先立ち。偉大なるマンネリだって? その通りかも知れない、だけどそれをみんな望んでいるし年齢を重ねるごとにそれを洗練させられることがどれほど凄いことか。そして曲の最後に手袋を床に捨てて代わりにハットを拾い上げ、シャウトとともにもう一度頭にかぶると、極めつけの「マイケル・タイム」。ここからの時間、音楽は止みステージに残るのはリズムを刻むビートとマイケルのみ。まさにキングが支配する空間となり、もう誰も彼を止められません。ビートに従いこれまでに身につけてきた卓越したダンスの技の一つ一つを惜しみなく繰り出してゆく。この瞬間を心待ちにしていた観客がどれほどいたかは、映像を観ればすぐに納得できるでしょう。歌手 / ダンサー / 作詞家 / 作曲家 / プロデューサー / コリオグラファー、いくつもの顔を持ちその全てで一流だった、こんなアーティストはこの先二度と現れない。第2のマイケル・ジャクソンだなんてあり得ない。それを悟ってしまうほどに、絶望的に惚れ惚れさせられるパフォーマンスでした。まったく、これで当日熱が出ていて体調が悪かっただなんてどう見ても信じられません。

太陽が沈んだ日

2009年6月25日午後1時14分(現地時間)、カリフォルニア大学ロサンゼルス校付属病院へ1人の50歳代男性が通報を受けて心肺停止状態で搬送されました。通報元はロサンゼルスにあるマイケル・ジャクソンの豪邸。ただならぬ異変にすぐさま騒ぎとなりメディアがこぞってあのマイケル・ジャクソンが死亡かと速報を流しはじめました。そのニュースはもちろんこの日本にも直ぐ入ってきてYahoo! JAPANトップページのトピックス欄にも、速報を知らせるNEWアイコンを伴って事務的に文字が並んだことを覚えています。正直驚きましたがたとえ何かあったとしてもマイケルほどの大物なら直ぐに最良の医療措置を受けられる準備があるだろうしマスコミの早とちりか冗談か誤報がいいところなんじゃないの、なんて半信半疑に受け止めていました。何故ならマイケルは来月(7月)からロンドンで開催する予定の自身最後と決めたツアーに向けてリハーサルの真っ只中のはずでしたし、そのときまではマイケル・ジャクソンは不死身なような気がしていて、まさかこんなことになるだなんて露ほども思っていなかったからです。あまりにも、突然すぎたのです。

ただ、現実はあまりに淡泊に進行しそれを受け止める人々にとってはあまりに複雑な出来事でした。懸命な蘇生措置の甲斐無く同日午後2時26分、マイケル・ジャクソン逝去。たった一人の男の死が、その日からしばらく世界を闇で包みこみました。

6月の末、僕は会社の事務所設置に伴ってまだ空の状態だった事務所と自宅を行き来しながら準備に追われていました。逝去のニュースが伝えられたのは、日本時間では6月26日の朝6〜7時頃。その日も普通に事務所に向かい、備品の発注処理や諸々の契約手続きなどを淡々とこなしていたと思います。現実のことと思えなかったこともありますし冒頭にも述べたとおりマイケルの音楽に触れる機会から遠ざかっていたせいか、最初は「ああ、マイケル死んじゃったのか」とそんなようにしか捉えることができなかったんですね。しかしテレビで繰り返し繰り返しマイケル逝去のニュースが流れ、ネット上では世界中のファンが泣き崩れる様子が画像や動画を交えて伝えられ、Twitterのタイムラインはまさに悲しみの滝のように見たこともない速度で落ちていき、そんな様子を見聞きしているうちに次第に重い気分になっていったことを覚えています。それは沈んでいく太陽を見ているようであり、そしてもう二度とのぼることのない太陽だと知ったときには心底悲しかった。

それからは本当にバカみたいなのですが、iTunesにリッピングしていなかったマイケルのCDを引っ張りだして漁るように聴いたり、ライブ・イン・ブカレストのDVDを観なおしたり、YouTubeやニコニコ動画でマイケル関連の動画を片っ端から再生してみたり、学生時代にはまった頃を思い出したりして、その度にマイケル・ジャクソンの凄さを再認識していたたまれない気分になるという時間を繰り返してきました。

誤解され続けたマイケル・ジャクソン

マイケルはその栄光の陰で一般の人には想像も及ばないような様々なことで辛い思いをしてきた人でした。自身の行動やメディアに向けた発言・弁明の多くは面白半分にねじ曲げられるか前後の文脈おかまいなしに切り取られ「変人マイケル」としてスキャンダラスなイメージを造られ、あまり彼をよく知らない人々はそれを鵜呑みにし彼を曲解してきた。成功で莫大な資産をもったばかりにそれをつけ狙われ、2003年までに実に1,500件以上2004年に至ってはたった1年で約130件という途方もない件数の金銭目的の訴訟を起こされました。その中にはマイケル・ジャクソン裁判にまで発展したあのくそ忌々しい児童虐待疑惑も含まれています。

何か言ったところで、正しく伝えてもらえるはずがない。マスコミに対しそんな猜疑心しか抱けなくなってしまったマイケルは後年あまり多くを語ることはありませんでした。発言の編集される恐れのない「生」のインタビューやスピーチの機会には時折登場し自身に対する様々な憶測や噂について否定することもありましたが、それでもやはり彼に対するくだらないゴシップの数々が止むことはなかったし、彼への偏見を抱いている人たちの心も変わることがなかったのです。彼らは、マイケル本人から語られていることを信じられないと言うなら、いったい誰の言葉であれば信じそして満足できたのでしょうか。彼らが満足する瞬間は今後も訪れることはないでしょう。

もちろんマイケルが聖人だったとは言いません。時にわがままだって言ったでしょうし自暴自棄な行動を取ることも、無茶な振る舞いによって人に嫌な思いをさせたり迷惑をかけたこともあるでしょう。前妻のリサ・マリー・プレスリーも彼の自暴自棄とも言える行動の数々が「自分には彼を守れない」と離婚の決心をさせる原因になったと話しています。しかし、そうした人間なら誰しも起こし得る種類のあやまちを出汁に過度の不当な扱いをされる所以はどこにも無いはずですし、まして謂われのないことで糾弾されるなどもってのほかです。

  • 1984年 ペプシとの大型スポンサー契約により臨んだCM撮影中に頭部に甚大な火傷を負う。その治療と賠償のため支払われた保険金推定3,000万ドルを自身を治療した病院に全額寄付。
  • 1984年 アフリカの飢餓と貧困層を解消する目的でライオネル・リッチーと供にキャンペーンソング "We Are The World" を作詞/作曲、クインシー・ジョーンズのプロデュースの下リリースし2,000万枚以上を売り上げる。関連する全ての印税収入6,300万ドルを全額寄付。
  • 1984年 飲酒運転防止キャンペーンに協力した功績を讃えられ、当時の大統領ロナルド・レーガンより感謝状の贈呈を受ける。この際大統領執務室への立ち入りを許可された特別な一人に数えられることとなった。
  • 1984年 ザ・ジャクソンズとしては最後のツアーとなったVictoryツアーの売上から500万ドルを寄付。
  • 1987〜1989年 15ヵ国で123公演行い440万人を動員したBADツアーのうちアメリカ国内で行った54公演で、恵まれない子供たちのため常に400席を用意した。
  • 1992年 子供たちを救うための慈善団体 "Heal The World Foundation" を設立。ペプシをスポンサーに迎え、世界各都市でDengerousツアーを開催しその収益金を寄付。
  • 1992年 クリスマスシーズンに訪れていたボスニアの子供たちへおもちゃや文房具の詰まったギフトボックス30,000個をプレゼント。その他小児病院や子供たちを支援する団体に11万ドルの寄付を行った。
  • 1993年 スーパーボウルのハーフタイム・ショウへ、子供たちのため収益金の一部を寄付することを唯一の条件として出演。NFLはHeal The World Foundationへ10万ドルの寄付を行った。
  • 1993年 自身が手術後の鎮痛剤の中毒に苦しんだ経験から、若者たちを楽物乱用から救う運動に参加。 モスクワ、アルゼンチン、グルジアに医療物資として救急車やワクチンを供給するための活動を行った。
  • 1998年 ノーベル平和賞にノミネート。
  • 1999年 有志の友人たちと供にチャリティ・コンサートを開催。収益金を赤十字 / ユネスコ / ネルソン・マンデラ子供基金に寄付した。
  • 2000年 39もの慈善団体をサポートしたスターとしてギネスに認定される。
  • 2001年 イギリス、オックスフォード大学より「世界共通の児童権利法案を提唱する」為の講演を依頼され講演を行う。
  • 2003年 2001年のアメリカ同時多発テロにショックを受け、直後にチャリティ・シングル "What More I Can Give?" をレコーディング。プロデューサーの不祥事によりCD発売には漕ぎ着けられなかったものの、時間を経てダウンロード販売によりリリース。収益金を遺児たちのために寄付。
  • 2003年 ノーベル平和賞に再びノミネートされる。ノミネートされた人物の中にはかの法王ヨハネ・パウロ2世も含まれていた。
  • 2003年 狼瘡患者支援団体および研究機関へのチャリティーイベントに出席。
  • 2005年 ハリケーン「カトリーナ」による被害救済のためキャンペーン・ソング "I Have This Dream" をリリース。収益金を寄付。
  • 遊戯施設が併設されている自宅ネバーランドに孤児院の子供や重篤な病に苦しむ子供、その支援団体、地元の子供達等を招待し、全ての施設を無償で開放。
  • ツアーで訪れたロンドンの街で、たまたま見かけた大勢のホームレスたちの姿がいたたまれなくなり、差し入れにピザを配り歩いた。
  • ツアーで訪れるのと同じくらい、世界各国の小児病院や孤児院を慰問した。
  • 生涯寄付金額3億ドル(284億円)、一個人が行った寄付としては最多金額としてギネスに認定。
  • 匿名で行ったものを含めると寄付金額の合計は500億円とも600億円とも言われている。

これは生前マイケルがアーティストとしての活動のみならず、ライフワークのように行ってきた慈善活動の一部です。かいつまんで書き出しただけでも、これが人道支援の現場において掛け値なく大きな貢献であったことは分かるはず。アーティストとしての特別な才能のみならず、そこから得た富と名声の力を自分だけでなく他人のためにこれほど強い意志をもって使い続けてきたアーティストが他にいたでしょうか。スーパーボウルのハーフタイム・ショウでラストを飾ったHeal The Worldのパフォーマンスでも垣間見ることのできる、赤ん坊を見つめる優しい眼差しや手慣れた抱き方、そうした様子を見ると子供たちを心から愛することはしても傷つけるようなまねをする人間には、僕には到底思えません。

1993年グラミー賞受賞時に実妹のジャネット・ジャクソンに紹介されて登壇した際、自らの信念についてマイケルは6分間にわたる生のスピーチを行っています。台本無しに言葉に詰まることなく「自分の言葉」で、優しくも確固とした態度で自身の想いを語るマイケル。一つ一つの言葉にかかる声のトーンには世界に向けて投げかけたお願いと言うよりももはや懇願のような響きさえ感じられ、それは世界から本気で争いを無くし子供たちに豊かさを捧げたいと願い、実際に行動に起こしていた彼の強い信念がにじみ出たものでした。もう、ただ感服するしかない思いです。このスピーチでは軽いジョークやジャネットとの仲の良さなど、マイケルの普段はなかなか見ることの出来ない一面も覗かせ、貴重なものとなりました。

Tears for Michael

世界各国で報道されたマイケルの訃報にショックを受け、涙したり座り込むファンの姿とマイケルに捧げられた品々をとらえた写真。

私生活で常につきまとってきた負の側面を考えると、その偉大な成功と照らし合わせてみてもマイケル・ジャクソンの人生が果たして幸せだったのか・そうではなかったのか、私程度が思い及ぶような話しではありませんし本人がどう感じていたかも今はもう知る術がありません。

しかし、右のスライド・ショーにある多くの写真が語るようにあの日以来世界が悲しみに打ち震えていることや、(主に音楽的な面で)確執があったとされる実兄ジャーメインが葬儀でマイケルの大好きだったチャールズ・チャップリンの "スマイル" を捧げたこと、そして何よりも、マイケルの長女パリス・ジャクソンが短いながらも涙にむせびながら精一杯の気持ちを込めて行ったスピーチ

生まれたときからずっと、みんなが想像できないくらい最高のパパでした。パパ、すっごく愛してる。
— パリス・ジャクソン

ただそれだけで、マイケルの人生は報いのあるものだった。そのように感じています。

マイケル・ジャクソンは誰に殺されたか

急に訪れたマイケルの逝去に関する報道は、マイケルが死してもなおあらぬ憶測やまことしやかな作り話により熱を帯びたものとなり、とかくその死の原因については混迷を極めていました。マイケルがようやく、本当にようやくロサンゼルス近郊フォレスト・ローン墓地の大霊廟へ身を埋め永眠につくことが出来たのは逝去から2ヵ月以上もの時間を経た9月3日(現地時間)のことです。これまでの時間にロサンゼルス市警ならびに検視局によって繰り返し行われた捜査や検視の結果、公式な見解として他殺であることが発表されました。

容疑がかかっているのはマイケルの専属医であった内科医のコンラッド・マーレー氏。外科手術の際に全身麻酔に使用する強力な麻酔薬で、麻酔医の立ち会いなしに投与されることは通常ありえないとされる劇薬プロポフォールを不眠に悩むマイケルからの執拗な要請があったからとはいえ投与。同時に複数の鎮痛剤も投与していたなか居眠り(トイレに立ったとの報道もある)をしマイケルの脈拍が低下した異変に気づかず心臓発作を引き起こさせ、また適切な蘇生措置を行えず死に至らしめた ...というのが大筋の見方のようです。現況ではコンラッド・マーレー氏は過失致死の疑いで訴追される見通しとなっており、このことが事実であればかなりの大事で、その罪に見合った重い罰からは免れようがありません。なんてことをしてくれたんだと、悔しい気持ちも怒りもあります。それに当初は自然死と見る動きもあっただけに、この展開は衝撃的ではありますが、しかしなぜか空しさを感じてしまうのは僕だけではないはず。

コンラッド・マーレーが手を下したとすれば、先にも言ったようにこの途方もない損失を生んだ責任としてしかるべき罰を受けねばならない。でも、本当は皆、心のどこかで思っているのではないでしょうか。

— 僕らが、マイケルを殺した。

死因であるプロポフォールや他の薬物の乱用。それはあの日たった一度起きた出来事ではなく、かなり以前から頻繁に行われていたことと聞きます。マイケルは私生活における孤独からくる不安感に苛まれ、また周囲から常にかかる大きな圧力や干渉により心に強い重圧を受けていました。それにより不眠や不安症に陥っていたマイケルは、その苦痛から逃れたい一心で自ら望んで薬物に手を出すようになったと見られます。医師の一線を越えた治療行為があったにせよ、薬物乱用防止キャンペーンなどにも参加していた人間が、薬に依存する生活を常態化させてしまったのです。死後、寝室からはマイケル本人が使ったものか判明していないものの大麻も発見されており、違法な手段で一瞬の安らぎを得ていた可能性も取りざたされています。これはどう考えてもマイケルが愛していた子供たちに示しがつくものではなく、それも違法な行為があったとすれば許されることではありません。どうして、もっと心を強くもっていられなかったのか。

しかしながら。マイケルの心は弱かったのかと問われれば、優しく非常に繊細で傷つきやすい面があったことに間違いはないと思いますが、自身の信念に基づく行動においてはむしろ一般の人間から比べ並外れた強い心を持っていたのではないでしょうか。そうでなければ壮絶を極めたマスコミの偏向報道や世間からの悪意に屈せず、アーティストとしても人道家としてもこれほどの功績を残せたはずはないからです。もし自分が同じ状況に置かれたら... と考えると、僕にはちょっと耐えられそうにありません。

しかし、どんなに堅牢に築かれた砦でも長年執拗な攻撃を受け続ければやがてほころびが生じ決壊してしまう時が来てしまいます。あれだけ子供が大好きだったマイケルが、悪意の塊であった大人の介在があったにせよ、あろうことか子供から虐待という屈辱的な容疑で訴えられてしまった。子供時代を奪われ、幼い頃から大人の汚い面を必要以上に見続けてこなければならなかったマイケル。大人になってから心のよりどころとなったのは、純真な子供たちでした。

HIStory(ヒストリー)

これまでのヒット曲を収録した「ビギンズ」と、新曲で構成された「コンティニューズ」による2枚組みの大作アルバム。

みんなは言う 僕はまともじゃないって こんな子供っぽいものが好きだから
これは僕の宿命なんだ 経験したことのない子供時代の 埋め合わせをするのが
"Childhood" — アルバム「HIStory」より

マイケルは子供たちのことをよく「友達」と表現しました — 自分を偏見無く見てくれて、傷つけない者たち。彼らを守ってやりたい一心で、慈善活動を絶えることなくそして驚くべきペースで行ってきました。だからこそ、子供に訴えられたという事実がマイケルをどれほど深く傷つけたかは想像に難くその苦痛は耐え難いものだったに違いありません。その苦しさから解放してくれる「薬」の存在は、そうしてマイケルを翻弄するに至ったのだと思います。

マイケルはOff The Wallの頃に「僕だって普通の人間なのに、でも誰もそうは見てくれないんだ」とこぼしています。その通りステージ上のマイケルはあまりに輝き過ぎていて完全無欠で、僕らはステージを降りてもなおマイケルが無敵と思いこんでしまっていた。ステージにいる間はまるで神でも崇拝するかのように見ているのに、ステージを降りたあとの彼のことは誰もまともに考えようとしなかったんですね、マイケルが悪夢のような苦痛に悩み続けていたというのに。マイケルは自信の怒りや苦しみを、自身の最大の表現手段である音楽に乗せて必死に訴えてきた。アルバム "HIStory" にはそれを多く見てとることができます。

確かにこれまでに築き上げてきた功績を考えると近寄りがたい存在になりすぎた面はありました。しかし地球60億人いて無敵のスーパースター・マイケル・ジャクソンを知りたいと思う人間は数多くいても、人間マイケル・ジャクソンを知りたいと思う人間はいなかったのか。世間の悪意から彼を守ってあげる術は本当に何もなかったのか。非常に身勝手な罪の意識ですが、多かれ少なかれ、皆がマイケルに対しそうした贖罪の気持ちを持っているからこそ、悲しみがよりいっそう深いものになったのではないでしょうか。

マイケルのためにこれからしてやれることがあるとすれば、その音楽と人道面で残した輝かしい功績を正当に評価し、受けなくともよかった不名誉から回復させてあげることでしょう。自分はまだ結婚もしていませんし子供が生まれるのはまだまだ先のことになりそうですが、もし子供から「せかいのえらいひと」について聞かれたら、エジソンでもなくマザー・テレサでもなく先ずマイケルのことを話してあげるつもりです。

これが最後だ。"THIS IS IT"

皆が、そしておそらくはマイケル自身が最も期待していたとおりなら、今頃ロンドンではマイケル・ジャクソンのファイナル・カーテンコール "THIS IS IT" が華々しく開催され、世界中のブログ, SNS, Twitterや掲示板はライブの話題で持ちきりになっていたはずです。

今年3月にマイケルがTHIS IS ITの開催を宣言したとき、正直な感想を言えばもう昔みたいには歌えないしダンスも厳しいのではとどこか冷めた印象もあって、僕は嬉しさ半分心配が半分という気分でした。裁判のショックからか近年のマイケルの体はさらに痩せて僕の目には弱々しく映っていましたし、また年齢も考えると最終的に計50本もの公演回数に上ったこのライブを本当にやり遂げられるのかと。それだけに「これが最後」というマイケルの言葉には寂しさを含んだ説得力を感じましたが、しかしあの完璧主義者のマイケルのこと、やるからにはきっとまた凄いライブにしてくれるに違いないという期待もあって、とにかく時が来るのを待つことにしました。

実際のところ何百時間にも及んで計画されたリハーサルは、ステージのクオリティを上げる調整のため5日間の公演延期があったことを除けば順調に進行していたようです。たぶんこのまま華麗なる復活劇を演じて自身最後の花道を飾るのだろう、駆けつけることのできないファンたちも後日リリースされるであろうDVD等の映像で、またあのステージで輝くマイケル・ジャクソンを観ることができる。あたり前にそんな時間がやってくるんだと思っていました。しかしながら結果は誰も全く予想しなかった事態となりその機会は永遠に失われてしまった。

ここにマイケル逝去後に公開された2枚の写真と動画があります。なぁみんな、これで51歳目前だぜ。嘘みたいだろ?

"They Don't Care About Us" のリハーサル風景を撮影したこの動画は、逝去する僅か2日前のマイケルを捉えた映像です。たまらないですよ。どんな人間も年齢を重ねることによる衰えを免れることなんて出来ませんしこの映像だけで判断するのは尚早かもしれませんが、映像の中のマイケルは近年の私生活における元気の無い様子からは想像がつかないほどに活き活きとしていて、もう歌えないかも・踊れないかもなんて思った自分が恥ずかしい。「ムーンウォーク出来るの?」なんて茶化しながらマイケルを追い回していたパパラッチと同じですよね。これを初めて観たときの気持ちは色んな感情が複雑に入り交じって自分でも良く分からないものでしたが、いま僕の中に残っているのは、マイケルの新しいステージを観ることのできない悲しさよりも「まだまだいける。マイケル・ジャクソンは最期までマイケル・ジャクソンだった」そんな充足感や安心感です。どう見ても格好良すぎるもの。

"THIS IS IT" は、10月28日より2週間のみドキュメンタリ映画に形を変えて世界同時公開されることが決定しました — "Michael Jackson's THIS IT IT"。幻となった本番のステージを想起させるリハーサルの様子がふんだんに盛り込まれるほか、あまり見せることのなかった貴重な舞台裏の様子も収められているといいます。本番ではないもの、それはマイケルにとっては不完全なもので、もしかしたら公開されることにちょっとへそを曲げてるかもしれませんが、世界中のファンがこれまで以上にあなたに会いに行くことを心待ちにし、大いなる敬意をもって接することでしょう。せめてもの餞になることを祈ります。そしてこの日までに気持ちの切換が出来ているかは微妙ですが、僕としてはこの映画は本来のライブの意味からしてもむしろ楽しみたいです。マイケルのライブには悲しみは似合わない。

ロング・グッドバイ

さて。予想はしていたもののやはりというか、それ以上に書き連ねてしまいました。これでも何度か推敲を重ねてはいるのですが、これまで周囲ではあまりマイケル逝去について語りあう機会がなかったこともあり色々吐露してしまった格好です。ある意味自分の中で整理をつけるためのエントリでもありますのでこれで良いかなと思っています。ここまでお読み頂いているかわかりませんが(笑)共感していただける部分があったなら嬉しいです。

このエントリ中で取り上げたものを含めマイケルのライブ映像の多くが、現在映像ソフトとして販売されておらず海外を含めても入手が不可もしくは困難な状況です。レコード会社に願わくは、マイケルが残した眠っている偉大な遺産の多くに陽の目が当たるように、またマイケルの遺族など権利を持った人が正当な利益を得られるように見直していただきたいところです。ステージにおけるマイケルの理屈抜きの格好良さ・創造性に富んだパフォーマンスは、子供たちにこそもっと見せてあげる機会があるべきだと思うんですよね。男の子なら絶対はまりますって。

HIStoryツアーでマイケルが東京を訪れた際、それが僕にとってマイケルのライブを生で観る絶好にして最大のチャンスでした。だけど、理由は良く覚えていませんがとにかく僕は行かなかったのです。人生でずっと忘れられずに引きずるような後悔なんていくつもあるものでは無いと思っているけれど、「マイケル・ジャクソンの生のライブを観なかったこと」こればっかりは取り返しのつかない心残りとなってしまったなという気がしています。いつの日かライブ・イン・ヘブンで会いに行くけど、それまではロング・グッドバイ。まずはTHIS IS ITを観てきちんと20世紀を終わらせます。

さようなら、マイケル・ジャクソン。僕に夢中になることの素晴らしさを教えてくれた人の一人。

Michael are you ok?
So, Michael are you ok?
Are you ok, Michael?